人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

Groovin

groove211.exblog.jp

Live Spot

クマ・・・・

当時、彼のことを「クマ」って、呼んでたから・・・

やっぱ、今でも「クマ」って言っちまうんだよな・・・

あれから・・・40年・・・

こんな事が、起きなければ・・・

彼と連絡を取ろうなんて思わなかった・・・。

ごく近しい友人にも話したことはない・・・

中でも特にあの衝撃的な長門くんとクマの出会いの瞬間に立ち会えたというのは、

ベネフィットであると、認識しています・・・。

Wikiを頼りに、飲みながらあの頃を思い出し、・・・ゆっくり時間を掛けて、

書いていこう・・・

あらかじめ、申し述べておきますが・・・

enchanの上京の目的は、あくまで・・・

輸入盤中古レコードの買出しだったということです・・・。

ですので、あの日本のロック史上の歴史的なな瞬間に立ち会えたというのは、

偶然の賜物でしか有りません・・・、タマタマです・・・。

なので、書くのは一年に一回か二回一週間から10日上京した時に

・・・見かけた様子です・・・。

まだまだ、書きかけです・・・・。

必然的に、登場人物も限られています・・・

山下 達郎 (クマ) ・・・Gt.Vo.シュガー・ベイブ、日本を代表するPOPSシンガー

長門くん・・・・・・・初代クマのマネージャー、後レコード屋パイドパイパー店主

小宮くん・・・・・・・長崎の長門くんの同級生、シンガー・ソングライター

大貫 妙子・・・・・・・Pf.Vo.シュガー・ベイブ、日本を代表するPOPSシンガー

徳武 弘文・・・・・・・Gt.ダイナマイツ、イカ天審査員、スタジオミュージシャン


まずは、Wikipediaから、

「>」はWikipediaからのコピペ

「・・・>」は・・・それを元にしたenchanの記憶の断片です。。。

    山下 達郎・・・略歴

1972年
>7月、山下達郎、アルバム『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を友人達と3ヶ月かけて自主制作。グループ名は特になく、メンバーは山下の中学時代のクラスメイトだった並木進、並木が高校で知り合った鰐川己久男と武川伸一の4人。メンバー全員が大学に進学した同年春、誰の口からともなく、今までの活動を何か形にして残そうという提案が出されたのがきっかけだった。アナログA面にザ・ビーチ・ボーイズ、B面にドゥーワップやロックンロールのカヴァーをそれぞれ収録。制作費は100枚で13万円。それをメンバー4人で25枚ずつ分け、ほとんどを友達に1枚1,500円で無理矢理売るが、結局最後はほとんどタダ同然で配ってしまう。

・・・>その時、使ったというテレコ見た事あるよ・・・。※

>このレコーディング時に並木からの依頼でエコー・マシーンを貸すため村松邦男がレコーディング・スタジオになっていた並木家を訪れ、「SINCERELY」のコーラスを手伝う。村松は並木の高校の友人の1年先輩。以後、並木家で行われていたセッションにギターを携え毎週、顔を出すようになる。
秋、『ADD SOME~』のデザインを手がけた金子辰也が当時通っていた美術学校の文化祭に出演。メンバーは山下(Ds), 鰐川(G), 武川(Key), 並木(B), 村松(G)。

・・・>仙台の老舗ロック喫茶っていわれる「ピーターパン」が開店したのは1972年9月なんだって・・・、enchanは附属の後輩本間 たかしに誘われて、その一月前の8月頃から店に通い始めていたんだ・・・。店に関わっていたのは長崎くん、メグミちゃん(後に彼の奥さんとなる)、先生(本名は忘れた)の3人・・・。

・・・>その夏はやけに暑かった、それで、メグミちゃんにビールを出してくれるように頼んだんだけれど・・・目の前には、ぬる〜いビールと氷の入ったグラス・・・。彼女はビールを飲んだことが無かったのでビールの出し方をコーラだの、ジュースとかと勘違いしていたんだ・・・。

>秋、大貫、当時ワーナーからプロジェクトを始めるときのスタッフとしてアレンジを請け負っていた矢野誠を紹介される。矢野は三輪車についてレコード会社から「学生街の喫茶店」のようなアプローチでと言われるが矢野自身、ああいう音楽は好みではなかった。その一方、大貫のオリジナルを聴き、シュールで冷たい詞を結構気に入っていて、次第に矢野の嗜好する音楽に大貫が接近して行く。
三輪車としてのレコード制作が始まろうとしていた矢先「グループを辞めたい」と漏らした大貫に、矢野は「じゃあ、辞めたら? もっといい仲間がいるから」と答えた。結局、三輪車を抜けることに決め、矢野の紹介で四谷のロック喫茶“ディスク・チャート”を訪れる。

>ディスク・チャートは当時、長門芳郎と長門の学生時代からの友人でバンド仲間でもあった小宮康裕の二人が店の運営を任されていた。

>長門は大学を中退して土方をしていたが、

・・・>あっ、そうか・・・ある時、長門くんに友人だって人を紹介されて・・・彼のアパートに招待されたんだ・・・、何でだか巣鴨で、大きな池のある公園の近くというより面してた・・・アパートというよりは「長屋」に近い木造住宅、住人はみんな日に焼けていておおらかで屈託がなくって・・・一応、ドアはあるんだけれど意味を成さない・・・まぁ〜、エチケットとして、セックスをする時くらいはドアを閉めましょうね・・・てな・・・具合、・・・隣に、ドモコを抱えた肝っ玉母ちゃんが居て・・・彼は「薩摩白波」をあおりながら・・・(ここらへん、記憶が定かじゃない)「こっち(東京に)来ちゃったらぁ??・・・仕事なんて幾らでも有るんだからさぁ〜」って、
彼らは、長門くんとかクマみたいな都会的な人間とは異なり、土着的である意味・・・海洋民族的粗野なイメージを伴っていた・・・enchanはその巣鴨と渋谷の感覚的な違いが今の、今まで埋まらないでいたんだ・・・

>この年の夏に故郷の長崎ではっぴいえんどを招いてイベント“大震祭Vol.3”[1]を主催した。その後音楽事務所に入るつもりで再上京したがやめて、この店に勤めるようになった[2]。長門らはそれまでのメジャーでハードな路線を捨て、当時はまだサブカルチャー的だったともいえるソフトなアメリカン・ロックを店のメインにしようと奮闘していた。

>ディスク・チャートでは閉店後、毎週水曜日に地下室でセッションが行われていた。

・・・>このセッションに参加したことは、一度もない。。。

>メンバーは大貫のほか、長門と小宮。すでにプロとして活動していた山本コウタローや徳武弘文※。

・・・>徳ちゃんとは何らかの縁を感じている・・・
出会いは・・・というと、小林ビルHONEY BEE※
東北大学キャンパス
渋谷ディスクチャート
国分町のミニキャバ

最初はHONEY BEEで1968年じゃないかなぁ〜?

>この時カメラマンのアシスタントをしていて後にシュガー・ベイブに参加する野口明彦。他に矢野や武蔵野タンポポ団の若林純夫、後に広告業界に身を置く下條高志などが参加して自作曲やCMソングの録音が行われていた。それに併せて、大貫のソロ・デビューに向けてオリジナル曲のデモ・テープ制作も行われるようになり、「午后の休息」[3]他数曲が録音される。

>11月、山下、自主制作盤のレコーディング・メンバーだった武川から彼の大学で評判になっていたディスク・チャートの存在を知らされる。しばらく講習がたて込んでて行けそうもないという武川に代わって山下が『ADD SOME~』を置いてもらうように店に行き、チーフの長門と会う。

・・・>この運命的な出会いの瞬間に居合わせた事を今さらながら幸せに思う・・・。


音楽の趣味があったため話に熱が入り、結局持参したレコードはプレゼントしてしまう。その場で聴いた長門は、山下のヴォーカルにすぐさま惹かれ、彼をディスク・チャートで閉店後地下室で行われていたセッションに参加しないかと誘う。


12月、山下をはじめ、自主制作盤のレコーディング・メンバーだった鰐川と武川に、ゲスト参加の村松を加えた4人がディスク・チャートで閉店後地下室で行われていた大貫のデモ・レコーディングのセッションを見学する。以後、山下は一人で足繁く通うようになり、やがて見学しているだけでなく、ギターを弾いたり、コーラス・アレンジに意見を出すなど、セッションに欠かせない存在になっていく。

暮れ、山下の“勝手な妄想”から自身のバンド構想が出来上がる。コーラス・レンジを広げるためまず、シンガーとしてソロ・デビュー計画があった大貫に話を持ちかけ、“女性はバンドではキーボードを弾くもの”と決めていた山下の説得でギターから“小学校以来触ったことが無かった”というキーボードにスイッチする形で参加の了承を得る。次いでベースは、ギターから転向させることで鰐川を説得、当初は渋ったものの、バンドをやりたいとの思いに勝てず、これを了承する。


1973年
1月、ギターは鰐川のほうが指は速かったが“フレーズが泣く”という理由で、すでに会社員として勤務していた村松を口説き、最終的には参加させる。

・・・>多分、2月だったと思う・・・ピーパンの長崎くんに「吊るしレコードの買出しに東京までヒッチハイクで行きたいんだけど、誰か泊めてくれって、?」って、訊いたんだ・・・すると、「知り合いに、長門くんって人がいるから、泊めてもれえば?」・・・「住所は?」・・・「渋谷にディスクチャートって店があるんだけど、長門くんはそこでバイトしてるよ・・・電話しといてあげるから、そこに行けば?」・・・って、

・・・>次の日、さっそく萌え色の例の画帳にマジックで太く、大きく「東京」って書いて四号線仙台バイパスに向かった・・・

・・・>画帳を広げ、親指を突き上げていると・・・10m先の路肩にトラックが停まって・・・走り寄れば、頭上から・・・「八王子までだけど・・・いいか??」って、声がした・・・。

・・・>ドアを開けると直ぐに地下への階段があって広い空間が見渡せた・・・。そう、そこがディスクチャート(地下に降りて行く感じとしては・・・仙台のオールディーズLIVEの店REMEMBERに近いんじゃないかな?)・・・客席、左手にレコードブースとカウンター・・・
「仙台から来た遠藤・・・です。」
「話は長崎くんから聞いてるよ・・・。なにか飲む?」
躰が芯まで冷え切っていたので・・・震え声で・・・
「コッ、・・・ココア・・・。」って、
バター入りの濃厚なココア・・・一生忘れられない味・・・、
(後で、何回も挑戦したんだけれど結局の所、あの味は出来無いでいる・・・)

>3月、知り合いのつてを頼ってドラムのメンバー募集を開始。4月の一日を使ってメンバーと一緒に演奏してオーディションを行い、決めることにする。並行して大貫のキーボードの特訓も始まり、数曲をバンドで演奏できるようにした。

>4月、応募してきたドラマーのオーディションを行う。参加したドラマーは全員そこそこは叩けたが、協調性のなさや妙な癖があるなど何かしらの見過ごせない欠点があり、結果は惨敗だった。一度は山下が自分で叩くしかないかとも考えたが、ディスク・チャートのセッションで顔見知りだった野口が最近ドラムを始めたことを大貫から聞き、山下がドラムを教えれば2,3ヶ月でどうにかなるだろうということで野口に会うことにする。
4月、山下、野口と会う。野口は話を聞くとあっさりとバンド加入を了承、ようやくメンバーが決まる。

>5月、山下、長門にマネージャーになるよう依頼、長門も引き受けることを決める。バンド名は映画『砂丘』[4]で使われていたヤングブラッズの曲名からとって“シュガー・ベイブ”に決定するがこの時、山下と長門は同じ名前を考えていた。

初夏、はちみつぱいのベーシスト、和田博巳の経営するロック喫茶“MOVIN'”※で伊藤銀次と駒沢裕城が『ADD SOME~』を聴き、大滝詠一に伝える[5]。

8月18日、山下、長門とともに福生の大滝宅を訪問。以後、大滝のレコード・コレクションを聴くため通い詰める。大滝、山下にはっぴいえんどラスト・ライヴでのコーラスを依頼する。

8月23日、長門が故郷の長崎で友人たちと主催したイベント“大震祭Vol.4”にて、デビューコンサート(長崎NBCビデオ・ホール 共演 : グッド・モーニング, ドゥーワー・ブラザース)[6]。大貫がMCを担当した、最初で最後のステージ。

8月26日、日本テレビ系「遠くへ行きたい」放送。番組中、大貫が知床で切り株に腰掛けて「光の中へ」(山下作)と「港の灯り」(小宮やすゆう作)、列車の中で番組のテーマ曲「遠くへ行きたい」を歌う。
9月10日、新宿ラ・セーヌ(共演 : ビートルズのコピーバンド)[7]。
9月11日、はっぴいえんどラスト・ライヴに向け、ココナツ・バンクと合同でリハーサルを行うためメンバー全員で大滝宅を訪れる。リハーサルは以後数日行われる。
9月21日、はっぴいえんどラスト・ライヴ“CITY -LAST TIME AROUND”にて大滝詠一 • ココナツ・バンク • 布谷文夫のコーラスに参加(文京公会堂)。後に『ライブ・はっぴいえんど』として発売[8]。
10月、“三菱ラジオジーガム(日本語改作版)”レコーディング(HITスタジオ)[9]。大滝のCMソングに、シュガー・ベイブがコーラスで初参加。
11月9日、東洋大学“白山祭”。
11月18日、跡見女子短期大学学園祭。
12月17日、“HELLO! WE'RE SUGAR BABE”(青山タワー・ホール 共演 : 小宮やすゆうとレッド・アイ・エキスプレス, 山本コウタローと少年探偵団, はちみつぱい)[10]。ライブ中、山下がMCでこの年に発売された洋楽アルバムのベストテンとワーストテンを発表した。
数日後、はっぴいえんどが所属していたプロダクション“風都市”が長門に接触、バンドと一緒の入社を打診してくる。メンバーと相談した結果、長門は承諾の返事をする。
1974年
1月1日、マネージャーの長門とともに、風都市に入社。これを機に、それまで練習スタジオ代わりに使用していた並木宅から、風都市が契約していた新宿のスタジオでリハーサルを行うようになる。
1月16日、“三ツ矢サイダー'74”レコーディング(~17日まで ポリドール・スタジオ)[9]。
1月24日、“三ツ矢サイダー'73 (Long Version)”レコーディング(ポリドール・スタジオ)[11]。
1月28日、“大滝詠一&鈴木茂コンサート”にゲスト出演(仙台市公会堂)。鈴木が風邪のため南佳孝が出演。

長門くんのブログ
http://www.tin-pan-alley.jp/column/kazetoshi02.html

MOVINのマスターのブログ
http://homepage3.nifty.com/sitedoi/sugarbabe.htm

※・・・>ある日、「クマが来るけど、どうする?」って・・・、やって来たクマは・・・「遠藤くん、僕んち来る」って、中野の長門くんのアパートの近くの定食屋で二人で一緒に秋刀魚定食を食べてから、彼のバンで実家に・・・、二階に通されて、そこにあったレコーディングに使ったというテープレコーダーを見せられた・・・。オープンリールデッキが2台置いてあって「遠藤くん、これでピンポン録音したんだよ」・・・、「けど、このデッキの代金まだ払ってないんだよ、だけど請求も来ないんだ」って・・・。

※アメリカ等では廃盤のレコードのジャケットの端に孔を開けて店頭に吊るして販売していた為、日本においては廃盤=吊るしと呼んでいた・・・まさか、アメリカの砂漠の店先から輸入してた訳ではないのでジャケットに穴が開いてるなんて無かったけれど、とにかく買ってきてすぐにターンテーブルに乗っけて針を落とすなんて出来なかった・・・レコードの溝に細かな砂が入ってるんだ・・・ビロードの布に中性洗剤を含ませ、洗う・・・enchanは箸を突き刺して乾かしていたが、中には本当に「吊るし」ていた人も居る)


Dr.K(徳武 弘文)
とくたけひろふみ
1951年5月25日 北海道函館生まれ
大学時代に"ブレッド&バター" のサポートをつとめ、以後、伝説のバンド "はちみつぱい" のメンバーと共に "山本コータローと少年探偵団" を結成し、本格的な音楽活動を開始。後に "吉川忠英&ホームメイド" に参加しながら、スタジオ・ミュージシャンとして幾多のセッションを行なう。74年に泉谷しげるのバックバンド "ザ・ラスト・ショウ" を結成。独立し2枚のアルバムをリリース。その後ニュー・ミュージック系アーティストを始め、五輪真弓、吉田拓郎、長渕剛、杉田二郎、大瀧詠一、南こうせつ、高橋幸宏、ファッションデザイナー山本耀司等のレコーディング、ライヴに参加、1998年、最も啓蒙を受けたナッシュビルのプログレッシブ・カントリー・ロック・バンド、「ベアフット・ジェリー」のリ・ユニオン・コンサートでのリード・ギタリストとして参加。その他にドラマの音楽制作、JT、サッポロビール、グリコ、花王、ハウス、マクドナルド、ブリジストン・ドーナツタイヤなど数え切れない程のCF曲の制作や、5作のソロ・アルバム、6作のギター教則ビデオをリリース。近年に於いては自らのバンドDr.K Projectを率い、精力的に活動を続けている。サムピックを使用したフィンガー・ピッキングにアメリカン・フィーリングを活かした独自のギター・スタイルを確立した彼のプレイは、カントリー・ミュージック、ルーツ・ミュージックが見直されている昨今、さらに注目されている。
http://rocosmusic.com/drk/profile/profile.html

※小柄で、ハゲチャビンの社長の持ちビル・・・
3階・・・ロック喫茶HONEY BEE
4階・・・Beatles専門喫茶BEATLES(あそこにあったサイケBeatles4点セットはenchanが描いたんだ・・・)一時、レノン(ロック喫茶のはしり)のマスター、後に SUN HOUSE※のマスター
by enchanti | 2011-03-28 17:28 | ミュージシャン プロフィール

by enchanti